Masuk王都の北門を抜けたところで、リゼットは早くも困っていた。
正確には、門を抜ける前から困っていたのだが、どうにか歩いていれば次にすべきことが見えてくるのではないかと期待していただけだった。
しかし、そんな都合のいいことは起きなかった。
夜明け前の街道脇には、長距離馬車の発着所がある。昼間なら旅商人や行商人、故郷へ帰る職人たちで賑わう場所らしいが、この時間ではまだ人もまばらだった。
いくつか並んだ馬車の前には行き先を書いた木札が掲げられている。
東部。
西部。
南街道。
北部。
リゼットはその札を前にして、しばらく立ち尽くしていた。
「……北部」
呟いてみる。
王都から遠い。
それだけで、妙に魅力的に思えた。
伯爵家からも。
王宮からも。
アルベルトからも。
できるだけ遠くへ行きたかった。
とはいえ、北部がどんな土地なのかを詳しく知っているわけではない。地理の授業で習った程度で、冬が長く、魔獣が多く、王都の貴族たちからは「国境に近い不便な土地」として語られることが多かった。
今のリゼットには、それで十分だった。
「すみません」
馬車の前にいた御者らしき男へ声をかける。
日に焼けた中年の男は、眠そうに欠伸をしていたが、リゼットを見るなり目を丸くした。
「はい? お嬢さん、どうしました」
その言い方に少しだけ安心する。
伯爵令嬢ではない。
祈紡ぎでもない。
王太子の婚約者でもない。
ただの「お嬢さん」。
それだけのことなのに、不思議な感じがした。
「この馬車は北へ行くのですよね」
「行きますよ。ただ、北部といっても広いですからね。途中の町で乗り換える人もいますし、この便なら最終的にはセインフェル領の南端まで行きます」
「セインフェル領」
その名は聞いたことがあった。
北方公爵家の領地。
国境防衛を担う大貴族の一つだ。
王都ではしばしば、セインフェル公爵についての噂を耳にした。
冷酷。
無愛想。
戦場では敵兵を容赦なく斬る。
黒狼公爵。
あまり穏やかな話ではなかったが、少なくとも王家と親密な家ではなかったはずだ。
「そこまでお願いします」
「え?」
御者が目を瞬く。
「本当に?」
「はい」
「いや、その……お嬢さん、セインフェル領がどういう所か知ってます?」
「寒いところだとは聞いています」
「寒いどころじゃないですよ。季節によっては朝なんか水桶が丸ごと凍るし、街道を外れれば魔獣も出る。王都育ちのお嬢さんが観光で行くような場所じゃない」
リゼットは少し考えた。
「観光ではありません」
「じゃあ何しに?」
そこで言葉に詰まった。
何をしに行くのだろう。
逃げに。
それしかない。
だが初対面の御者に、婚約を破棄して家を飛び出しました、と説明するわけにもいかない。
「……仕事を探そうかと」
自分でも少々苦しい答えだと思った。
案の定、御者はリゼットの服装を上から下まで見た。
家を出る時、できるだけ地味な外套を選んだつもりだった。
それでも、生地は上等だったらしい。
「仕事ねえ」
疑っている。
「ありますか?」
逆に尋ねると、御者は頭を掻いた。
「まあ、北じゃ人手不足ですから、仕事自体はあると思いますけど。お嬢さん、何ができるんです?」
リゼットは答えようとして、また止まった。
礼儀作法。
社交。
刺繍。
帳簿整理。
王宮儀礼。
貴族家の系譜を覚えること。
それから、祈紡ぎ。
最後のものは絶対に言いたくなかった。
「……書類仕事なら」
「読み書きできるんです?」
「はい」
「計算は?」
「一通り」
「だったら商会とか領主館の下働きなら、運がよければあるかもしれませんね」
その言葉に、リゼットはほんの少し希望を感じた。
普通の仕事。
そんなものを自分がする姿は想像したこともなかった。
それでも、できるかもしれないと思うと少し嬉しかった。
「料金はいくらでしょう」
御者が金額を告げる。
リゼットは鞄から財布を出した。
そして、固まった。
硬貨の種類は知っている。
価値も知っている。
ただ、自分で支払ったことがほとんどない。
「……これで、足りますか?」
恐る恐る銀貨を何枚か差し出す。
御者が数え、苦笑した。
「多いですよ。こっち一枚と、銅貨がこれだけ」
「あ……そうなのですね」
「ずいぶん箱入りだったんだなあ、お嬢さん」
恥ずかしくなった。
十九歳にもなって、馬車代すらまともに払えない。
「すみません」
「いやいや、謝らなくていいですよ。騙すような奴に当たらなくてよかったですね」
その一言で、リゼットの背筋が少し冷えた。
騙される。
そういう可能性を全く考えていなかった。
財布にどれほど入っているかも、人前で平気で見せた。
もし相手が悪い人間だったら。
「……勉強になります」
「そんな顔しなくても大丈夫ですよ。最初は誰だって知らないことがありますから」
さらりと言われ、リゼットは思わず相手を見た。
最初は誰だって知らない。
家では、知らないことがあるたびに恥ずかしいと思っていた。
伯爵令嬢なのだから。
王太子妃になるのだから。
何でも知っていなければならない。
間違えたら誰かに迷惑をかける。
そう教えられてきた。
「ありがとうございます」
「だから謝るより、そっちの方がいいですね」
御者は笑った。
「じゃあ、出るまでまだ少し時間があります。中で待っててください」
「はい」
馬車へ乗り込む。
座席は木製で、王都で使っていた伯爵家の馬車とは比べものにならないほど硬かった。
すでに何人か乗客がいる。
大きな荷物を抱えた老夫婦。
職人らしき若い男。
子供を連れた女性。
誰もリゼットを知らない。
視線は向けられたが、すぐに興味を失ったようにそれぞれの会話へ戻った。
それが新鮮だった。
王宮では、どこへ行っても見られていた。
王太子の婚約者。
祈紡ぎ。
伯爵家の長女。
一つ一つの言動を観察され、誰かが噂をする。
ここでは違う。
隣に座った老婦人が、少し腰をずらして場所を空けてくれた。
「荷物、膝に置いてたら疲れるでしょう。こっちへ寄せなさい」
「よろしいのですか?」
「そんな大きな鞄でもないでしょう」
「ありがとうございます」
リゼットが頭を下げると、老婦人は気さくに笑った。
「ずいぶん丁寧な子だねえ。北へ帰るの?」
「いえ、初めて行きます」
「まあ、そうなの。今の季節ならまだいいけど、向こうは朝晩冷えるからね。外套はそれ一枚?」
「はい」
「それじゃ足りないよ」
当然のように言われ、リゼットはまた固まった。
外套は一枚あれば十分だと思っていた。
老婦人が呆れた顔をする。
「若い子は格好ばっかり気にして」
「いえ、そういうわけでは……」
「途中の町で厚手の靴下と毛布を買いなさい。あと手袋。指が冷えると本当に何もできなくなるよ」
「分かりました」
「分かったって顔じゃないねえ」
くすくす笑われる。
恥ずかしい。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
誰もリゼットに完璧さを求めていない。
知らないなら教える。
それだけのことらしい。
やがて馬車が動き始めた。
車輪が石畳を叩く音が響く。
窓から王都の城壁が遠ざかっていく。
本当に出てきたのだ。
胸の奥が急にざわついた。
今ならまだ戻れる。
そう思った。
北門をくぐっただけだ。
次の停車場で降りて、王都行きの馬車へ乗り換えればいい。
父に謝る。
母を抱きしめる。
アルベルトにも謝罪する。
それからミレイユのもとへ戻る。
簡単だ。
全部なかったことにできる。
リゼットは膝の上で両手を握り合わせた。
戻れば楽になる。
少なくとも、決断しなくて済む。
「お嬢さん、顔色悪いよ」
隣の老婦人が心配そうに覗き込んだ。
「馬車に酔ったのかい?」
「いえ」
「じゃあ、何か悩み事?」
「少しだけ」
「少しって顔じゃないけどね」
返事に困った。
老婦人はそれ以上聞かなかった。
ただ、小さな包みを取り出してリゼットへ差し出す。
「干した林檎。甘いもの食べると少し気分が落ち着くよ」
「そんな、いただけません」
「一枚くらいで遠慮しないの。旅先で遠慮ばっかりしてると腹が減るよ」
押し切られて、一枚受け取った。
口に入れる。
少し酸っぱくて、噛むほど甘みが広がった。
「あの」
「ん?」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
それだけのやり取りなのに、泣きそうになった。
何も知らない人が、何も求めずに親切にしてくれる。
自分が祈紡ぎだからではない。
伯爵令嬢だからでもない。
ただ、顔色の悪い旅人だから。
そんなことが、リゼットにはひどく不思議だった。
馬車は何度も町や村へ立ち寄りながら北へ進んだ。
昼過ぎには空の色が少し変わり、王都周辺より雲が厚くなった。
風も冷たい。
老婦人の忠告に従い、途中の町で毛布と厚手の靴下を買った。
店員に値段を吹っかけられそうになったところを、同じ馬車の職人の青年が助けてくれた。
「お姉さん、これじゃ高すぎるよ。向かいの店なら半分で買える」
店員が嫌な顔をする。
リゼットは申し訳なくなったが、青年は気にせず笑っていた。
「旅慣れてないんだろ?」
「分かりますか?」
「分かるよ。財布出す時に周り見てないもん」
またそれだった。
「そんなに危ないことなのですか」
「場所によるけどね。金持ってますって宣伝する必要ないだろ」
「なるほど……」
「なるほどじゃなくて、本当に気をつけた方がいいよ」
「はい」
一日で、知らなかったことをいくつも覚えた。
知らないことだらけの自分が少し情けなく、それでも同時に妙な楽しさもあった。
夜は街道沿いの宿へ泊まった。
問題はそこだった。
受付で一人部屋を頼むと、宿の主人が料金を告げた。
リゼットは言われた通り硬貨を出した。
そこまではよかった。
「食事はどうします?」
「食事?」
「夕飯。付けるなら別料金」
「……ああ、はい。お願いします」
「風呂は共同。湯は夜九時まで」
「九時」
「それと水差しは廊下。朝飯は一階」
情報が一度に出てきて、リゼットは少し混乱した。
「分かりました」
部屋へ入ってから、ようやく大きく息を吐く。
狭い。
伯爵家の自室の四分の一もない。
ベッドと小机と椅子だけ。
壁にはひびがあり、窓から少し風も入ってくる。
それでも扉を閉めた瞬間、肩から力が抜けた。
誰も入ってこない。
誰も説得しない。
誰も何かを頼まない。
「……静か」
声に出すと、余計に静けさを感じた。
その夜は、なかなか眠れなかった。
ミレイユの顔が浮かぶ。
苦しそうな姿。
死にたくないと泣いていた声。
もし自分が戻らなかったせいで、本当に死んでしまったら。
その時、自分は一生後悔するのではないか。
布団の中で何度も寝返りを打った。
逃げたかった。
でも、妹を見捨てたいわけではない。
その二つが同時に心の中にある。
自分でも、どう扱えばいいのか分からなかった。
結局、ほとんど眠れないまま朝を迎えた。
翌日も馬車は北へ向かった。
三日目になると、景色は完全に変わった。
平野は減り、針葉樹の森が増える。
山影が近くなり、時折、遠くで獣の鳴き声が聞こえた。
乗客も少しずつ降りていき、馬車の中は空いていく。
午後を回った頃だった。
突然、馬が大きく嘶いた。
馬車が急停止する。
「きゃっ」
子供が悲鳴を上げた。
荷物が床へ落ちる。
御者の怒鳴り声が外から聞こえた。
「全員、中にいろ!」
リゼットは窓へ顔を近づけた。
街道の先に、数頭の馬が見える。
その周囲に人影。
騎士たちだった。
何人かは地面に倒れている。
さらに、その向こうの林が不自然に揺れた。
低い唸り声。
巨大な灰色の獣が姿を現す。
狼に似ている。
だが普通の狼ではない。
肩までの高さが成人男性ほどある。
額から二本の黒い角。
魔獣。
「灰角狼だ!」
御者が叫んだ。
騎士の一人が剣を構える。
別の騎士が負傷者を引きずって下がる。
リゼットの身体が勝手に動いた。
「外へ出てはいけません!」
老婦人が腕を掴む。
「でも怪我人がいます」
「騎士がいるでしょう!」
「重傷です」
窓越しにも分かった。
一人の騎士の脇腹が大きく裂けている。
鎧の隙間から血が溢れていた。
普通の治療では間に合わないかもしれない。
祈紡ぎなら。
その考えが浮かんだ瞬間、胸がざわついた。
使わないと決めたわけではない。
妹の時は、代償が大きすぎるから拒んだ。
目の前で死にそうな人がいるなら。
「すみません」
老婦人の手を外す。
「ちょっと!」
リゼットは馬車の扉を開けた。
冷たい風が吹き込む。
外へ飛び降りる。
「おい、何してる!」
御者の怒声。
構わず負傷者のもとへ走った。
「動かないでください」
膝をつく。
若い騎士だった。
顔色が悪い。
呼吸も浅い。
「あなた……誰だ」
「今はそれより」
リゼットは手袋を外した。
祈紡ぎは、直接触れなければ使えない。
傷そのものではなく、身体に入り込んだ呪滓へ触れる。
灰角狼の爪には呪滓が宿ることがある。
普通の傷だけではない。
黒い靄が、騎士の脇腹から薄く立ち上っていた。
やはり。
放置すれば身体の中へ回る。
リゼットは手を伸ばした。
その瞬間だった。
「触るな」
低い声がした。
同時に、手首を強く掴まれた。
「……っ」
驚いて振り返る。
そこにいた男を見て、リゼットは一瞬言葉を失った。
黒髪。
黒い外套。
背が高い。
騎士たちと同じ装備ではないが、腰には剣を佩いている。
整っているというより、鋭い顔立ちだった。
目つきも険しい。
噂話でしか知らなかった人物が、一瞬だけ頭をよぎる。
黒狼。
だが確信はない。
男はリゼットの手首を掴んだまま、怪我人を一度見た。
「医務兵!」
「はい!」
別の騎士が駆け寄る。
「止血。傷口を洗え。呪除けの銀布も使え」
「ですが、閣下、この出血では――」
「動脈は切れていない。焦るな。死なせる傷ではない」
閣下。
その呼び方に、リゼットの胸が跳ねた。
男は再びこちらを見る。
近くで見ると、思っていた以上に冷たい目をしている。
「君は何をしようとした」
「助けようと」
「方法を聞いている」
「祈紡ぎです」
周囲の空気が変わった。
騎士たちがこちらを見る。
男の目が細くなる。
「祈紡ぎ?」
しまった。
言わないつもりだった。
けれど、ここまで来て誤魔化せない。
「はい」
男の視線が、リゼットの手へ落ちる。
「呪いを引き受ける類の術か」
「正確には、呪滓を自分へ移して分解します」
「代償は」
心臓が一度、大きく鳴った。
まただ。
その質問。
今まで、祈紡ぎを使おうとするたびに聞かれた言葉は決まっていた。
成功するのか。
助かるのか。
どれくらいかかるのか。
それだけ。
「代償、ですか?」
「聞こえなかったか」
男の声は無愛想だった。
「その力を使ったら、君に何が起きる」
リゼットは答えられなかった。
なぜ聞くのだろう。
怪我人が目の前にいるのに。
人を救えるのに。
自分のことを。
男の眉がわずかに寄る。
「言いたくないのか」
「いえ」
「なら言え」
「……記憶を失うことがあります」
周囲が静かになった。
男の手から、ほんの少し力が抜ける。
「どの程度」
「呪いの強さによります」
「この程度なら?」
リゼットは負傷者を見る。
灰角狼の呪滓。
強いものではない。
「たぶん、小さな記憶です」
「たぶん?」
「何を忘れるかは、選べません」
男はしばらく何も言わなかった。
怒っているようにも見える。
だが、誰に対して怒っているのか分からない。
「それでも使おうとしたのか」
「この方が怪我をしています」
「見れば分かる」
「なら、なぜ止めるのですか」
思わず言い返していた。
男の目が少しだけ見開かれる。
「私なら助けられます」
「医務兵でも助けられる」
「ですが、もし間に合わなかったら」
「だからといって、君が記憶を差し出す理由にはならない」
リゼットは言葉を失った。
男は苛立ったように続ける。
「負傷者を見るたびに自分を削るつもりか。そんなことをしていたら、いずれ君自身が何も残らなくなる」
「でも」
「でも、ではない」
強い口調だった。
それでも、責められている気はしなかった。
奇妙だった。
むしろ逆だった。
自分を守れと言われている。
そんな気がした。
男はようやく手首を離す。
「もう一度聞く」
低い声。
「その力を使う前に、必ず考えろ」
リゼットは無意識に息を止めた。
「治した後に、君は何を失う?」
その言葉が、胸の奥深くへ落ちた。
誰も。
今まで一度も。
そんなことを聞かなかった。
リゼットは答えようとした。
けれど喉が詰まり、声が出なかった。
男は怪訝そうに眉を寄せる。
「どうした」
「……いえ」
何でもありません。
そう言いかけて、やめた。
また同じことをするところだった。
何でもないはずがない。
胸の奥が、どうしようもなく痛かった。
「その質問を」
リゼットはようやく声を出した。
「初めて、されました」
男の表情が止まった。
その向こうでは、医務兵が負傷者の止血を続けている。
灰角狼はすでに騎士たちによって追い払われ、街道には再び風の音が戻っていた。
けれどリゼットには、目の前の男しか見えなかった。
冷たい顔。
不愛想な声。
優しい言葉など一つもない。
それなのに。
王都で誰より親しいはずだった家族や婚約者より、この見知らぬ男の方が、初めて自分を一人の人間として見てくれた気がした。
男は何か言おうとして、少し迷ったようだった。
それから短く尋ねる。
「名前は?」
リゼットは一瞬ためらった。
誰も自分を知らない場所へ来たはずだった。
それでも、なぜかこの男には答えてもいいと思った。
「リゼットです」
「家名は」
少し迷ってから、首を横に振った。
「今は、ただのリゼットです」
男の目がわずかに細くなった。
何かを察したのかもしれない。
だが追及はしなかった。
「そうか」
それだけ言って、彼は背を向ける。
近くの騎士が声をかけた。
「セインフェル公爵閣下、負傷者の搬送準備が整いました」
リゼットの身体が固まった。
やはり。
北方公爵。
王都で何度も噂を聞いた男。
ヴァルド・セインフェル。
冷酷な黒狼公爵。
その本人だった。
ヴァルドは振り返る。
「どうした」
「いえ、その……」
噂と違う。
そう言いかけて、さすがに飲み込んだ。
ヴァルドはますます怪訝そうな顔をする。
「妙な女だな」
「初対面の女性に言う言葉ではないと思います」
反射的に言い返した。
自分でも驚いた。
こんなふうに男性へ返したことなどなかった。
ヴァルドも一瞬黙った。
そして、ほんの少しだけ口元を動かした。
笑ったのかどうか、リゼットには分からなかった。
「それだけ口が回るなら大丈夫そうだ」
「何がですか」
「知らん」
「公爵様」
「ヴァルドでいい」
「初対面でそれは無理です」
今度こそ、男の口元が確かに少しだけ緩んだ。
ほんの一瞬だった。
それでもリゼットは見た。
黒狼公爵と恐れられる男が、わずかに笑ったところを。
そしてなぜか、その表情を忘れたくないと思った。
そう思った瞬間、自分がそんなことを考えたことに驚く。
記憶を失うことを恐れて王都を出たばかりなのに。
北へ向かう街道で、リゼットは早くも一つ、新しく覚えておきたいものを見つけてしまった。
第25話 初めて抱きしめられる祖母の手紙を見つけた翌日、リゼットは朝から妙に落ち着かなかった。悲しいのかと聞かれれば、悲しい。嬉しいのかと聞かれれば、それも間違いではない。祖母が自分を大切に思っていたことを知れた。忘れてしまった顔や声について、ミレイユから新しく聞くこともできた。それなのに、胸の奥には昨日から重いものが沈んでいる。理由は分かっていた。祖母の手紙の中にあった一文だ。『娘にも全てを話せませんでした』娘。つまり、母マルグリット。母は何も知らなかったのか。それとも、何かだけは知っていたのか。どこまで。祖母は何を言えず。母は何を聞けず。そして自分へは、何も伝わらなかったのか。考え始めると、止まらなくなった。「リゼット様」声をかけられ、ようやく顔を上げる。資料室の向かいに座っていたノエルが、困ったような顔をしている。「同じ頁を、もう十分くらい見ています」「そんなに?」「少なくとも俺が三回インクを足すくらいは」「その基準は分かりません」「俺も今作りました」少し笑う。けれど、自分でも集中できていないのは分かっていた。今日調べているのは、祖母エレナが残した他の文書と、アーヴェル家へ送られた可能性のある書簡の記録だった。肝心の手紙そのものは見つかっていない。ただ。三十年前。エレナから娘マルグリットへ、私信が二度送られている記録が残っていた。内容は不明。そ
第24話 祖母も知っていた翌朝、古文書庫の中央には、一枚の巨大な紙が広げられていた。普通の系図ではない。いくつもの家名が線でつながり、婚姻によって姓を変えた女性たちの名前が、三百年以上にわたって書き加えられている。王都の侯爵家。地方の伯爵家。すでに断絶した子爵家。神殿へ入った女性。平民へ降嫁した者までいる。一見すれば、何の共通点もない。しかし。赤い印をつけられた名前だけを追えば。一本の線になる。「……これが全部」リゼットは系図から目を離せなかった。「祈紡ぎなのですか」白髪の老術師が頷く。「記録で確認できた者については」昨日見つけた三十七人。そのうち、家系を遡れた三十一人が。婚姻を重ねながら。ほぼ同じ血統へつながっていた。「そんなことが」ノエルも驚きを隠せない。「名字が全部違うから、今まで誰も気づかなかったんですか?」「それも一因でしょう」老術師が答える。「祈紡ぎの力そのものが、母から娘へ必ず受け継がれるわけではありませんからな」「では、飛ぶのですか」リゼットが尋ねる。「一代、二代と現れないこともあったようです。それでも、かなり高い割合で同じ母系に戻っております」ヴァルドは腕を組み、系図の端から端まで見ていた。「偶然で説明できるか」老術師は首を横に振る。「難しいでしょう」「婚姻を操作した可能性は」
第23話 消された祈紡ぎたち翌朝、リゼットが古文書庫へ降りると、昨日までとは明らかに様子が違っていた。中央の大机だけでは足りず、壁際に二つ追加の机が並べられ、その上には年代別に分けられた記録簿が山のように積まれている。ノエルとガレスだけではない。砦の文官がさらに四人。北方公爵家付きの術師が三人。そして、昨日から調査を指揮している白髪の老術師まで、すでに仕事を始めていた。「……本当に全部出したのですね」リゼットが呟くと、後ろからヴァルドの声がした。「全部出せと言ったからな」「少しは加減するのかと思っていました」「何のために」振り返る。ヴァルドも朝から普段より険しい顔をしていた。「祈紡ぎがどう扱われてきたか調べるんだろう」「はい」「なら都合のいい年代だけ拾っても意味がない」その通りだった。けれど。机の上の量を見ると、気が遠くなる。ノエルが遠くから手を挙げた。「リゼット様、今なら逃げても誰も責めませんよ」「逃げません」「ですよね」「ノエルは逃げたいのか」ヴァルドが言う。「いえ、全く」「今、かなり逃げたい顔をしていたぞ」「閣下ほど人の顔を読む能力はありませんので、自分の顔までは分かりません」「口は回るな」「仕事もしております」机の上にはすでに十数枚の要約が並んでいる。どうやら本当に働いているらしい。リゼットも外套を脱ぎ、自分の席へついた。
第22話 妹の呪いに王家の紋章がある北方公爵家の古文書庫は、砦の地下にあった。正確には、砦が建てられるよりさらに前から存在していた石造りの保管庫を、後の時代に砦の一部へ組み込んだものらしい。朝。ヴァルドに案内されて地下へ降りたリゼットは、重い鉄扉の前で思わず足を止めた。「ここですか?」「ああ」「随分、大げさですね」鉄扉には三つの鍵穴がある。しかも、その周囲には古い魔術式まで刻まれていた。ヴァルドは腰の鍵束から一つを取り出し、同行していた法務官がもう一つ、白髪の老術師が最後の一つを差し込む。「公爵様一人では開けられないのですか?」「開けられないようにしてある」「なぜです?」「当主が勝手に記録を消したり、書き換えたりしないためだ」その答えに、リゼットは少し驚いた。「公爵家自身を信用していない仕組みなのですね」「人間だからな」いつものように簡単に言う。三人が同時に鍵を回すと、低い音が響いた。老術師が魔力を流し、扉に刻まれた線が薄く光る。やがて。重い鉄扉がゆっくり開いた。中から冷たい空気が流れてくる。地下特有の湿った匂い。古い紙。革。木。そして。ほんの少しだけ。呪滓に似た匂い。リゼットは眉を寄せた。「何かあります」ヴァルドがすぐに反応する。「呪いか?」「いえ」リゼットは入口で立ち止まり、感覚を確かめる。
第21話 ごめんなさいだけでは戻れないミレイユの身体から王家の古い術式紋が見つかった。その事実は、リゼットの頭から離れなかった。医師と術師は詳しい調査が必要だと言い、ヴァルドはすぐに古文書の確認と王都から届いた記録の照合を命じた。けれど、その日のうちに何かが分かるわけではない。ミレイユは高熱のため薬を飲み、しばらく眠ることになった。リゼットは医務室の隣に用意された小部屋で、椅子へ座ったまま待っていた。待つしかない。それが一番苦手だった。以前なら、自分に何かできないかと医師へ食い下がっていただろう。祈紡ぎを使えば熱だけでも楽にできるのではないか。呪滓を少しだけ抜けば。そんな考えが、今も浮かばないわけではない。でも。今日は言わなかった。医師が必要ないと言ったからだ。普通の解熱薬が効いている。呼吸も安定している。今、自分が力を使う意味はない。それでも、手を膝の上で握りしめていなければ落ち着かなかった。「また何かしたそうな顔をしているな」横から声がした。ヴァルドだった。いつから見ていたのだろう。「何もしていません」「知っている」「ならいいではありませんか」「していないが、したそうだと言った」リゼットは少しだけ眉を寄せる。「顔に出ていますか?」「かなり」「最近、公爵様に顔を読まれすぎている気がします」「分かりやすくなったんじゃないか」「前は?」「全部隠していた」
第20話 王女のように育った妹が北へ来た知らせが入ったのは、昼前だった。リゼットは資料室で北方の古い呪術記録を読み、ヴァルドは向かいの机で領内の報告書へ目を通していた。ここ数日はその形がすっかり当たり前になりつつあり、時折言葉を交わしては、またそれぞれの書類へ戻るという静かな時間が続いていた。扉が強く叩かれた。「閣下!」ノエルの声だった。ヴァルドが顔を上げる。「入れ」扉が開く。ノエルはいつになく息を切らしていた。「南の監視所から早馬です。王都方面から来た馬車が一台、領境を越えました」ヴァルドの眉が寄る。「誰の馬車だ」「アーヴェル伯爵家です」リゼットの手が止まった。胸の奥で、嫌な音がした。「お父様?」思わず立ち上がる。ノエルは首を横に振った。「いえ」そこで。なぜか言いづらそうにリゼットを見る。「乗っているのは……ミレイユ・アーヴェル令嬢だそうです」一瞬。意味が分からなかった。「……誰が?」「ミレイユ様です」聞き間違いではない。リゼットは椅子へ手をついた。「どうして」昨日。手紙を送ったばかりだ。いや、到着にはまだ時間がかかる。ミレイユがこちらへ向かっているのなら、リゼットの手紙を読んでから出発したはずがない。つまり。妹は。リゼットから北へ来ないかと尋ね







